地味な映画と地味な音楽が好き。
マノエル・デ・オリヴェイラ『世界の始まりへの旅』、
ビクトル・エリセ『マルメロの陽光』が好き。
文系家人と11歳と8歳の女の子2人、シャルトリューの男の子とひっそり暮らし中。


なぜ描くのか?夢のままの方が美しいのに

うちの石竹ちゃんが咲いた。思っていたよりも花びらが重なり合う豪華な石竹ちゃんでまだ多くのつぼみがあるのでたくさん咲くといいと思う。

自分のお弁当ばかりかそもそも自分の作った料理に飽きてきた。いろんなレシピで作ってみてもそれは同じ。気分の問題なんだけど、ひとが作ったごはんが食べたい。お母さんのごはんがいちばん食べたい。

京都・貴船神社の七夕ライトアップに行きたいなー電車だとどうやって行くのかなと思ってひとり調べてみると鞍馬にあった。遠い。とても電車では行く気にならないアクセス(私には)。思案中。

ペドロ・コスタがインタビューでゴダールのことを「ああいう風に高いレベルの音楽をふんだんに使ってなおかつ映画自体を高めていける人というのは、そう何人もいない。」と言っていて、しょーもないゴダール賛歌だと思ったけれど、私の中ではゴダールの映画はうるさい系に属される映画でそれでも見たかったり上手だと思ったりするのはそういうことも一部かなと思ったりした。「ロックンロールのゴダールはクラッシュで、ワイヤーはストローブ=ユイレだった」とかそういうこと言うとうえーて思うのは私だけ? 期待の星ペドロ・コスタだからよけいに。

映画『仮面/ペルソナ(Persona)』(イングマール・ベルイマン/1966/スウェーデン)。リヴ・ウルマンの初主演作。夢と現実と倒錯と錯覚と狂気の境目。唐突に猥雑な映像が挿入されるときショックを受けるのは、誰かになりたいと願い夢から覚める衝撃か、誰かになった後引き戻される衝撃か。アルマのセックス体験談を静かに聞くエリザベートは誰になりたいと願っていたのか。今隠れている場所にはすき間がある。不安、挫折した夢、残虐性、恐怖、絶望と無言の認識。存在とは何か。

映画『カンタベリー物語(I Racconti Di Canterbury)』(ピエル・パオロ・パゾリーニ/1971/イタリア、フランス)。劇中にあふれるセックス描写。人間の快楽、享楽、食欲、決して美しくない部分について狂気じみた描き方をされるとモラルはどこかへ忘れてくる。他のエログロ・パゾリーニ作品に較べると人間の滑稽さのほうが浮かび上がり見やすい作品。「語る楽しみのために書かれた物語、ここに終わる」というラストにファンタジーから引き戻される。

アンサンブルてほとんど持っていないけれどサリー・スコットのブラウンベースにベビーピンクの袖ぐりのアンサンブルは欲しいと思った。はじめてかも。